ひとやまいくら

わからない人の気持ち

涙ひとつで信用度が変わる

本当に本心のように

本当に憂いてるように

疑いを挟ませない雰囲気がある

 

しかし優先度が高いわけでは無い

どうにでもなるような事でその感情が最優先では無くなる

大して優先してないとわかった

 

相手を想うと同時に「想う自分が好き」なんて事は本当にあるようだ

決して薄情というわけでは無く

現実的なんだと分かった

想える時に想えるだけ想えば良い、と言うのが真理

 

「そうであってほしい」と言うのは自分のエゴなんだとしみじみ思う。

場合によっては相手から「重い」「余計なお世話」なんて思われるかもしれない

自分の考える「想い」と言うのもまたエゴなんだと分かった

 

渡す方

受け取る方

双方の「受け渡し、受け取り具合」がちょうど良いのが本当の優しさに繋がるのだろう

行き過ぎた感情はいい結果は生まない。

全人類

日本人ですら全員と会うことは無い

近所の住人の顔も全員は知らない

気付け

みんなと仲良くなんてありえない

合わない奴に合わせるな

「何も得がないなら接する必要が無い」と割り切れ

良い人じゃ無いのに良い人であろうと、そう思われようとするな

それはそうする値があると決めた人だけにしろ

人付き合いに格差があるのは当たり前だ

思い切って無視しろ

 

そして同じことをされても文句は言うな

文句を言われても文句は言うな

 

経験値

経験値が得る場合

良いことによるもの

悪いことによるもの

がある

 

良いことであった場合は何ら問題はない

実感も直ぐ湧くし、次に生かすのも容易

 

悪いことだった場合はまず経験値として理解するまで時間が掛かる

次に生かす点では同じだが、とにかく経験値として得るまでに時間が掛かる

その「悪い」ことに囚われて素直に経験値と考えられるまで時間が掛かる

 

何かしら自分に悪いことが降りかかったらまず

これは経験値になると言い聞かせる

自主的に経験値にするように行動する

囚われるのは仕方ないが止まっていても何も良いことは無いと切り替え

次に生かせるようにシュミレートしておく

 

何かしらの意味があるとか考えるのも良いが

とにかく血肉に変えられるように

その悪いことを楽しめ

持ち物

いくら道具を揃えた所で行くあて、使うあてがなければ、これ程無駄なことは無い

道具や知識を集める、溜め込む事の面白さは知っているつもりだが

使いこなす楽しさは殆ど味わった気がしない

 

「あて」があればその道中で揃えるのも良いだろう

 

そう考えることが出来ず、準備ばかりしているような、、、

必要か不要かわからずモノばかり増えて、そのうち自分の「持ち物」を整理したり見直したりしてやった気になっている

 

目的があれば持ち物は最低限で出発できる。

 

そのうち集めたモノが重くなりすぎて動けなくなるかも知れないと思いので

取捨選択をやりたい

その判断材料を揃えるために、モノが増えていくような気がする。

 

物理的な物は大分減らしたが、精神的なモノの減らし方がよくわからない。

時間経過

何やっても時間が経つのが遅く感じる

仕事中も

サボってる時も

忙しい時も

暇な時も

遊んでる時も

寝てる時でさえも

 

それなりの忙しさを感じながら進める仕事で「これ」を感じるのが今一番辛い

こんだけやったのにまだこんだけ?

物理的な忙しさと、集中している事、この二つが無いと「忙しいと時間が経つのが早い」は成り立たない

 

忙しさは簡単だけど

集中が曲者

ある程度慣れてくると忙しくても集中してないのがわかる

慣れでこなせるようになった仕事で集中するのは困難である、別の事をする訳でもなく

やれることを、やれるだけやってれば「こんなこと」になるのは当たり前

 

 

 

マイブーム

すぐ手元から無くせるものだと気にならないのだが

後のことを考えてしまうような出来事が億劫に感じる

 

不確かな情報を元に行動する

今後処理に困りそうなものを手に入れる

 

変化を楽しめる程の柔軟性が失われつつある

あえて飛び込む

むしろやる

など

勢いがなくなって来ている

出来ることを繰り返す方が楽に決まっている

 

しっかり考える程の知的さも無くなってるような気もする

時間をかけることが苦手になってきている

自分の中に「ブーム」を作るのが嫌になってくる

高所恐怖症

最近「高所恐怖症」になったような気がする

高い所自体が怖いわけじゃなく

高い所に行くと視界が広がって、より現実が見えるのがなんか怖い

 

自分の生活圏の狭さ

実際の世間の広さ

建物の多さ

そこから見える人の多さ

遠くに見える有名建築物

うっすら見える山

 

自分が関わったものしか存在して無いかのような勘違い

 本当に世界が広いことを気づいてしまう感覚

 

見えてる範囲ですら狭いのにこれ以上あるのが見えてくる現実

この広さをもう少し普通として捉えられるようにしないとダメだと思う